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筑前守 [その他]

豊臣秀吉が中国攻めの難航や黒田官兵衛幽閉の責任を負って、「筑前守」の名乗りを織田信長に返上したか、剥奪されていた可能性が高いことが研究で分かったというニュースがありました。

秀吉「筑前守」返上か…官兵衛幽閉で引責? (読売新聞) - Yahoo!ニュース

秀吉は1575年に筑前守を名乗り始めましたが、1578年12月から1581年7月までの間は「藤吉郎」となり、その後に再び筑前守と名乗ったそうです。

戦国武将の官位というと朝廷からの任命を受けずに勝手に名乗っていたケースも多いですが、羽柴筑前守は織田信長が朝廷に要請して任官した正式なものだったはずです、「明智日向守」もそうですね。

一昨日に最終回だった大河ドラマの「軍師官兵衛」を意識してか、記事にも見出しにも黒田官兵衛の名前が出てきますが、ドラマの中でも徳川家康を「内府(内大臣)」、小早川秀秋を「中納言」のように名前ではなく官位名で呼ばれる場面もありました。

こちらは秀吉の天下統一後の豊臣政権下で任官したものですが、肝心のドラマの主人公の黒田孝高は「官兵衛」、「如水」と呼ばれるだけで官位名で呼ばれたことはなかったと思いますが、官兵衛の官位が何だったのかというと「勘解由次官」でした。

官兵衛の息子黒田長政の官位は「甲斐守」で、せっかくですから他の登場人物の官位はというと、石田三成「治部少輔」、加藤清正「主計頭」、福島正則「左衛門大夫」、小西行長「摂津守」、増田長盛「右衛門尉」、大谷吉継「刑部少輔」などとなります。

長政の豊臣政権下での官位は「甲斐守」なんですが、面白いのは徳川家康の江戸幕府になってからの官位はというと羽柴筑前守の「筑前守」なのでした、まあ、筑前国の国持ち大名になったんですから当たり前といえば当たり前ですかね。

今日は祝日ということで好きな歴史について勝手に書いたブログなのでした、けれど専門家として書く社労士ブログと違って間違っていることもあるかもしれないので間違っていたら御免なさいです(専門家として書く社労士ブログでも間違えていることはありますけどね)。

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